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【書評】大阪のなぞ 歴史がつくってきた街のかたち

  • ymdjdpa
  • 3 日前
  • 読了時間: 2分

『大阪のなぞ 歴史がつくってきた街のかたち』  橋爪 紳也 著  河出新書 2025年6月刊 『本書は、大阪府下の各所にある文化的な所産や出来事の断片を紹介することで、「大阪人も知らない大阪のこと」を再確認していただく読み物となることを企図した。』と前書きにあるように、「建築」「交通」「商売」などいろいろな角度からの面白いトピックが集められている。 例えば、『豊中の曽根は「美食文化」の中心であった』という一節を紹介すると、 かって、全国の美食家にとって、豊中市の曽根の名はひろく知られていた。北大路魯山人ゆかりの料亭「星岡 茶寮」があったからだ。 大正時代から昭和初期にかけて、曽根には富裕層の住まいが多くあり、関西では芦屋と並ぶ高級住宅地であった。「東の鎌倉、西の曽根」などと讃えられたという。 曽根駅のすぐ東側に、飛びぬけて大きな屋敷があった。某実業家の別邸「衆楽園」である。 大正11年(1922年)に、4000坪の敷地に、建坪487坪、延坪657坪の大邸宅が竣工した。 総工費は60万円、市民の寄付で完成した大阪城復興天守閣の建設費が47万円であったから、破格の豪邸であったことがわかる。 この実業家の没後、子息がこの父の遺産を有効活用してしてくれる人を求めた結果、東京で美食倶楽部を主宰、会員制料亭「星岡茶寮」を運営して全国の美食家が知る北大路魯山人らが星岡茶寮の大阪支店を開くことになった。 昭和10年に大阪星岡茶寮が開店。大阪や神戸で活躍する、政財界の要人、文化人が続々と訪れ、美食を堪能したという。 大阪星岡茶寮は米軍の空襲で焼き払われ、戦後は残った倉を改装して営業を行ったが、今はその面影もない。豊中の曽根に、日本を代表する美食文化の拠点があったことは忘れられつつある。 ということで、総合文化の講義が行われている豊中市立文化芸術センター一帯は、かって「美食文化」の中心であったのです、、、 星岡茶寮については、以前にこのブログでも「会場は、かって星ヶ丘茶寮だった、、、」という投稿がされています。 なお、著者の橋爪紳也氏は、総合文化を学ぶ科で講義していただいている橋爪節也先生のご令弟です。


 
 
 

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